人の道、国家と指導者のあり方を説いた
安岡 正篤
やすおか まさひろ
不朽の人間学によって社会を啓発し、昭和を指導した安岡正篤。
安岡正篤は、孔子・孟子や老子・荘子ほか東洋先哲の教訓に潜む普遍の真理を国家の歴史と指導者像を介して現代に敷衍し、人の道そして国家と指導者のあり方を論じました。
「一燈照隅・万燈照国」と説く安岡教学の真髄は、単なる経世済民の学に終わらず、自ら在郷指導者の養成に励むとともに世直しを求めて指導者の啓蒙につとめる、実践活学にあります。
安岡正篤が論じるテーマは、陽明学に代表される東洋の思想、西洋哲学、国家治乱興亡の歴史、英雄・先覚者の人間像、科学と産業、教育と道徳、人生と家庭、いんで経営と行政、文学と芸術、自然と環境など、実に多領域にわたります。
その凝縮したものが人の道と指導者のあり方に関する教えであり、安岡人間学(人物学)といわれるゆえんです。
とりわけ歴史の故事に真理を諮り、国家・社会の指導者について筆法鋭く諭す指導者学は人々に多くの共感と感動を与えています。
万人に支持されている安岡教学の真髄がここにあります。
若き日の安岡正篤 |
北九州市の倉光 晴爾邸にて |
第1回全国青年研修会開講式 |
壇上の安岡正篤 |
教材を読誦する安岡正篤 |
第4回全国師道研修会 |
昭和30年過ぎ頃 |
同人の会合で講演 |
山梨県師友協会結成大会 |
箱根でくつろぐ安岡正篤 |
全国師友協会第21回中央大会 |
昭和37年、岡潔先生と。 |
結婚式で祝辞を述べる一コマ |
晩年の数少ないカラー写真 |
安岡正篤 年表
明治31年 2月13日大阪市に生まれる。
大正10年(24歳) 旧東京帝大在学中に「支那思想及び人物講話」(後に「東洋思想と人物」と改題)を著す。
大正11年(25歳) 旧制第一高等学校を経て、旧東京帝大法学部政治学科に進み、在学中「王陽明研究」を著す。
卒業後、文部省に奉職するも日をおかずして職を辞し、以後、官途につかず東洋活学の求道に生きる。
同年、東洋思想研究所を設立。
大正13年(27歳) 拓殖大学東洋思想講座、翌年海軍大学校の講師に招聘される一方、宮内大臣牧野伸顕伯や海軍大将など、幾 多の国家指導者と忘年心契の交りを結ぶ。「日本精神の研究」「士学論講」を著す。
昭和 2年(30歳) 金雞学院を(後に財団法人となる)設立。
昭和 4年 「東洋倫理概論」を著す。
昭和 6年 日本農士学校を創設。東洋思想の研究とともに草の根の指導者(農士)の育成につとめる一方、
東洋政治哲学・人物学に基づいた思想を発表、各界の指導層に多大な影響を発揮する。
昭和 7年 「東洋政治哲学」を著す。
昭和11年 「童心残筆」「日本精神通義」「漢詩読本」を著す。
昭和13年 「為政三部書」を著す。
昭和15年 「経世瑣言」を著す。
昭和17年 「続経世瑣言」「世界の旅」を著す。
昭和19年 大東亜省の顧問に就任。後に終戦の枢機に参画する契機となる。
昭和20年 「義命の存する所」「万世の為に太平を開かむと欲す」など「終戦の詔勅」草案を刪修。
(ただし「義命の存する所」は閣議で受け入れられなかった)
昭和24年 師友会(後の全国師友協会)を設立。会名の「師友」は、吉田松陰の「士規七則」中の「徳を成し、材を達する には、 師恩友益多きに居る」に拠る。
同年10月、機関誌「師友」(後に「師と友」に改名)第1号を発行、以降、毎月刊行し35年間408号を数えるに至る。
同時に、講話など政財界指導者の啓発につとめ、吉田茂元総理から師と遇される。
以後、歴代総理の指南役の役割を担う。
昭和25年 8月、初の夏季講習会を開催、以後、主に人物学と内外情勢をテーマに毎年1回開催する。
昭和26年 日本化成(現三菱化成工業)、日本銀行の役員に対し月1回の講義を始める。
以後、久保田鉄工(現クボタ)・住友銀行・近鉄など代表的企業における講座・講話会が行われる。
昭和27年 大阪に定例の古典講座「先哲講座」が開設される。2月、東京で「照心講座」が開設される。
昭和29年 6月、全国の同系諸団体を統合し会名を「全国師友協会」と改める。
昭和32年 3月、関西師友協会が発足。これを契機に各地に傘下となる師友会や友誼団体が結成され、啓蒙活動は全国に及ぶ。 以後、わが国を代表する企業で講座を続ける一方、指導的経済人と講話会・懇親会を重ね、財界指導者の啓発につとめ る。また、「宏池会」「素心会」等同志会の命名に代表される如く岸信介・佐藤栄作・大平正芳・福田赳夫ほかの指導 的政治家とも師弟の交わりを重ね、国家指導者の育成につとめる。
昭和33年 8月、第1回全国師道研修会開催される。
昭和34年 1月より毎月第一月曜日にラジオ講座「暁の鐘」を始める。以後、20年間にわたる。
同年7月、学卒や企業の若手社員を対象に第1回全国青年研修会を開催する。
同年12月、名横綱双葉山他による「木雞会」が結成される。
昭和35年 9月、岸信介・稲山嘉寛・江戸英雄各氏他による「節句会」が結成される。
昭和41年 1月、大阪経済会有志による「無以会」が結成される。
昭和42年 6月、若手官僚を中心に「先生を囲む新橋の会」がつくられる。
昭和43年 1月、東京電力・野村証券が代表発起人となり月例会「政教懇話会」が発足する。
昭和44年 4月、経済界有志の勉強会として「不如会」が結成される。
昭和48年 2月、若手経済人による「而学会」が発足。
同年12月、臥床し1ヵ月静養。
昭和50年 2月、安岡正篤夫人逝去。
昭和54年 8月、前立腺肥大の手術により年未まで入院。以降、月例の講座等の多くを休講、休会とし、活動を絞る。
昭和55年 3月、政界有志からの懇請により「水雲クラブ」を開き、「水雲問答」「宋名臣言行録」を毎月1回2年間にわたって論 じる。その間、政界・財界指導者との止むを得ない会合、限定された講座研修会への出席以外は活動を自重する。
昭和58年 8月、全国師友協会会長を退く。
同年10月、静養のため、高野山真言宗大本山管長堀田真快大僧正(実兄)のもとに上山するも、病状平癒せず。
同年12月13日、住友病院(大阪)にて永眠する。享年86歳。
昭和59年 1月25日、岸信介氏を葬儀委員長、稲山嘉寛・大槻文平・田中季雄氏他を副委員長として、
青山葬儀所で葬儀が行われた。
同年3月、生前の意向にそって全国師友協会は解散された。ただし、各地の師友協会は自発的に存続した。
同年9月、全国師友協会関係者他が「安岡正篤先生流芳録」を刊行。
平成 3年 12月、かって日本農士学校の在った郷学研修所の敷地内(埼玉県嵐山町菅谷)に、遺徳を偲びかつ継承する
「安岡正篤記念館」が落成。
平成 9年 2月13日、全国師友協会関係者他が生誕百年祭を挙行。記念として坐像を製作、年譜を刊行する。